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校歌に想う

定12 濱﨑 秀昭様

私は戸畑高校の校歌は五千校以上ある全国の高校の校歌の中でベスト10に入れてよいすばらしいものだと思っている。

 私は家庭の事情で中卒で八幡製鉄所に就職し、戸高の定時制に入学した。高3の時、理想的と言ってよいすばらしいN先生に出会い、私の人生は変わった。先生に憧れ、何としても先生のような立派な教師になりたいと思うようになり、会社を辞めて大学進学を決意する。その後西日本新聞社戸畑支局に勤めながら定時制を卒業して一年独学で受験の準備をしてN先生の指示で國學院大学文学部を受験して合格。昭和36年3月20歳で上京した。4年間アルバイトをしながらも充実した学生生活を送り、念願の高校の国語教師になった。

 そしていつしか校歌に関心を持つようになり、神奈川県内の高校の校歌は毎年行われている“校歌祭”に10回以上出席し、各校の校歌を熱心に聴いてきた。また野球部の部長を23年間務めたので校歌を聴く機会は多く、甲子園出場校の校歌も40年以上熱心に聴いてきた。しかし本当にこれはすばらしいなあと思う校歌は意外と多くはない。

 例えば、神奈川県では作詞は北原白秋、佐佐木信綱、土岐善麿、三好達治、木俣修、吉野秀雄、吉田精一、神保光太郎といった一流の詩人や歌人や学者が担当し、作曲も山田耕筰、信時潔、岡野貞一、平井康三郎、團伊玖磨、高木東六、中田喜直、八州秀章、池辺晋一郎、三善晃といった一流の作曲家が担当した校歌も少なくない。しかしどうも歌詞と曲がぴったりマッチしていないように思われる歌が少なくない。

そんな中で、昭和8年に作詞北原白秋、作曲山田耕筰のコンビで作られた湘南高校(旧制湘南中学校)の校歌と昭和9年に作られた作詞佐佐木信綱、作曲山田耕筰の希望ヶ丘高校(旧制横浜第一中学校)の校歌はさすがに戦前の校歌らしい風格と格調のある校歌だと思う。また私が15年勤めた厚木高校(旧制県立第三中学校)の作詞荒川義治、作曲深山桂の校歌は昭和6年に制定されたが、これもすばらしい校歌の一つと言ってよい。

 戸高の校歌はこれらに比べても決して勝るとも劣らないすばらしい校歌である。戸高の校歌は昭和28年11月に発表会が行われた。

 昭和28年(1953)はどんな時代か。3月にソ連のスターリンが死去。4月にボストンマラソンで山田敬蔵が世界新で優勝。5月にエドモンド・ヒラリー(英国)らがエベレスト初登頂。6月には英国女王エリザベスⅡ世が戴冠式。10月にチャーチル元英国首相がノーベル文学賞受賞。国内では1月に秩父宮雍仁親王が薨去(51歳)3月バカヤロー解散。4月保安大学校(現防衛大学校)開校。7月南紀豪雨(死去1046人)12月奄美大島が日本に返還。菊田一夫・古関裕而のコンビで作られた『君の名は』は歌も映画も大ヒットし、一世を風靡した。また映画『ローマの休日』が大変な話題になった年である。身近なところでは兄が戸高に入学し、私は戸畑中学に入学した年で、この頃から新聞を熱心に読んでいたのでこれらの出来事は鮮明に覚えている。

 さて、校歌の作詞は火野葦平(本名玉井勝則)。火野さんは明治40年1月若松町生まれ。10人兄弟の長男。小倉中学から早稲田大学英文科に進学した当時のエリートだが、文学活動や労働運動に参加して検挙され転向した。支那事変に応召中の昭和13年に『糞尿譚』で第6回芥川賞を受賞する(32歳)。小林秀雄は「文藝春秋社」の特派員として昭和13年3月上海経由で杭州に入り、火野さんに芥川賞を渡した。その時小林は「火野葦平君は見るから九州男児と言った面魂の情熱的眼つきをした沈着な男である」と書き残している。

その後『麦と兵隊』以下兵隊三部作が評判となり、300万部を超える大ベストセラーになり、マスコミの寵児となった。そのため戦後は「戦犯作家」として戦争責任を追求され、昭和23年から25年まで公職追放を受け、文学活動は禁止された。追放解除後は若松と東京を往復し、九州男児の苛裂な生き方を描いた自伝的小説『花と龍』や『革命前夜』等数多くの作品によって優れた力量を発揮し、再び流行作家になった。晩年は健康を害していたと言われていたが、昭和28年(46歳)頃はまだ充実した作品を発表していた時期で、調べてみると、戸高のほか若松・直方・東福岡等7校の高校の校歌を作詞している。そして作曲はみな古関裕而である。この時期、火野さんは精力的に福岡県下の高校の校歌を作っていたことが分かる。そういう中で生まれたのが戸高の校歌であり、七五調でよく練られたすばらしい歌詞である。私は二番が特に好きである。

 火野さんは豪放磊落の九州男児のイメージが強いが、実は心優しい人で、人に頼まれると「ノー」と言えない人で、人の面倒をよく見たので晩年は俗に扶養家族が50人もいたと言われた。昭和35年1月に53歳で自殺したのは意外なこととして受けとめられ、惜しまれた。

 古関裕而(明治42年~平成元年80歳)は古賀政男(明治37年~昭和53年73歳)と並ぶ昭和を代表する作曲家で、二人は共に約五千曲を作曲したという。

 古賀政男はジャンルとしては歌謡曲(流行歌・演歌)が大半であるが、古関裕而はクラシック畑からポピュラー畑に転身し、歌謡曲(戦時歌謡・ニュース歌謡)映画音楽・軍歌行進曲(日本のスーザと言われた)校歌・応援歌など広範多岐にわたる。気品のある格調高い曲風で知られ、現在でも数多くの作品が愛唱されている。私の好きな歌は30曲位あるが、特に好きな歌を少し挙げれば、戦前では霧島昇の「若鷲の歌」渡辺はま子の「愛国の花」。戦後では藤山一郎の「長崎の鐘」全国高校野球選手権大会大会歌「栄冠は君に輝く」東京五輪の選手用入場行進曲「オリンピック・マーチ」などである。

 古関さんは早慶をはじめ大学の校歌や応援歌を14曲。高等専門学校4校、母校の福島商業学校(現福島県立福島商業高校)をはじめ高校は32校、中学15校、小学校17校など80校以上の学校の校歌を作曲している。恐らく校歌の作曲者としては日本一であろう。

 私は高校の校歌を何百曲と聴いてきたが、戸高の校歌は歌詞も曲も本当にすばらしい。戸高はまことに幸運であり、火野・古関コンビでよくぞ創って下さったと心から感謝したい。私は機会あるたびに一番好きな歌として母校の校歌を歌ってきた。

 ところで、火野さんの歌詞はさすがに地元の作家だけに「響き灘」「天籟」「夜宮」「峰」(皿倉山)等郷土の地名を入れて全体的によく考えられたすばらしい歌詞だと思う。

 だが、私は早くから気になっているところが一箇所ある。それは三番の歌詞の終わり近く「世界の朝を照ら()なん」という処である。私は國學院大学で国文学を専攻して古典文法を今泉忠義先生(『源氏物語』現代語訳で有名な文法学者)から丁寧に教えられた。それに基づいて判断すると「照らさ」はサ行四段活用の動詞「照らす」の未然形の「照らさ」である。問題は次の「なん」である。「なん」(なむ)を一語と取ると助詞となり、希望・願望の意味を表す未然形接続の終助詞で「・・・してほしい」となる。つまり「照らさなん」は「照らしてほしい」という意味になる。火野さんはこの意味で使用している。文法的には間違いとは言えない。だがもう一つの解釈が成り立つ。それは「なん」を「な」と「ん(む)」に分解して取る解釈である。これによると「な」は助動詞「ぬ」の未然形の「な」であり、意味はこの場合、「確述」「強意」で「きっと・・・だ」「確かに・・・だ」という意味である。助動詞「ぬ」は活用語の連用形接続なので「照らす」の連用形「照らし」に接続することになる。次に「ん(む)」は未然形接続の助動詞「む(ム)」の終止形である。この場合意味は、推量ではなく「意志」に変わる。(・・・う。・・・よう)そこで、「照ら()なん」を「照ら()なん」とし「きっと照らそう。きっと照らしたい」という解釈になる。

つまり、火野さんは第三者の立場で「照らさなん」(照らしてほしい)を使った訳だが、ここは戸高生が歌うのだから「照らしなん」(照らしたい、照らそう)の方がよりふさわしいと言えるのではないか。

 従って、私はいつか機会があれば、校歌の歌詞を「照ら()なん」から「照ら()なん」に改めるべきではないかと思っている。

 実はこのことは20代の学生時代から気づいていたが、なかなか言い出せなくてきた。今や私も80代、余命いくばくかは分からないが生前に思い切って言っておきたいと思うようになり、敢えてペンを執った次第である。

 最後に母校とその関係者の皆様方の弥栄を心からお祈り申し上げます。

(令和4年10月記す)

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