戸畑中学校・戸畑高等学校の思い出
2013/7/1
鵜池實さん(3回生)

1.はじめに

 1月に心臓の具合が良くなく、今まで、通っていた病院で診断を受けたところ、入院した方が良いと云われ、結果的には、40日間の入院生活を送りました。
 2月に同期会開催の通知があり、取敢えず欠席の返事をしましたが、同期会の開催時期に身体の調子が良ければ今回は最後の同期会なので、何としても出席したいと考えていました。
 病床で同期会のことを色々考えましたが、出席出来なければ、6年間も御世話になった同期生に今まで、自分が経験し、印象深かった出来事を思い出し、出席した人にだけにでもお知らせしたいと思い、この拙い文を作成した次第です。内容によっては、皆様にご迷惑をおかけすると思いますが、ご容赦ください。

 まず第一に私の家族、親戚が戸畑高校に御世話になりました。

  1 亡兄    鵜池 精一郎  第1回生
  2 亡兄の妻  鵜池(中山)妙子 第5回生
  3 小生    鵜池 實    第3回生
  4 弟     鵜池 寛    第7回生
  5 亡弟    鵜池 豊    第8回生
  6 父の兄の子 鵜池 邦弘   第13回生
  7 妻の弟   秋吉 康弘   第13回生
  8 亡兄の長男 鵜池 隆治   第31回生
  9 弟の長男  鵜池 正明   第39回生
      (以上は天籟会名簿による)
 以上9名が御世話になり、有難く思っております。
 又、我々の同期生は、中学入校(昭和20年4月)高校卒業(昭和26年3月)と6年間同学校通い、終戦時の教育改革等に揉まれて、特異な経験をしました。以上、色々なことを思い出し、記録したほうが良いと思い、筆をとりました。

2.先生の方々の想い出

2.1 福山要先生 (昭21年3月〜昭33年4月) 「英語」
 ガリ先生という綽名の先生で、自分の担当する授業時間が来ると、小使いの代わりに、自分で職員室の鐘を打ち、消防車と云われていました。
 高校3年生の時は担任でしたので大変お世話になりました。進学先の大学は理工系を希望し、早稲田大学の理工を受けたいと思い先生に相談し、合格可能だろうと云われましたが、親父は私立は駄目だと言われ断念しました。九工大に合格した時私が鯛を持ってゆき先生に喜んで頂きました。又、大学生時代には、正月に家が九工大官舎の近くだったので、まず先生の家にストームをかけ、その足で九工大官舎に向かいました。又、昭和36年に小倉で結婚式をした時に、(先生は小倉高校に転任されていましたが)、ご祝辞を頂きました。

2.2 村上修一先生 (昭16年12月〜昭26年3月) 「数学」
 直接に先生から習ったことはありませんが、先生の息子村上修が、九大工学部を卒業し、三菱長崎に入社し、私が課長をしていた課に配属され、先生は奥様と一緒に私の家に来られ、大変恐縮な思いをしました。
 息子修は三菱で定年まで勤務し、昨年、お母さんの住んでいる直方に帰りました。

2.3 今宮昌成先生 (昭23年3月〜昭31年5月) 「理科」
 広島高師を卒業され赴任されました、広島で原爆に被害され、顔に傷がありました。化学を習いましたが、アメリカで、原爆の製造を指揮されたエンリコ・フェルミの事を授業中に話していましたが、どの様な事を私達に理解させたいのか忘れ残念に思います。
 その後の話ですが、義父の秋吉利男が九州工大を定年で辞めた後西日本工大に御世話になり、その葬式に学長が出席されたので、御礼に学校に伺いましたが、不在で、事務局長の今宮先生が出てこられぴっくりビックリしました。その時同期の合田、五群、等の話にはずみました。

2.4 蘇村健二先生(昭23年4月〜昭57年3月) 「理科」
 これは先生自身のことではなく、高校3年の時、恵良誠一が偶々、地学の試験の時、僕の隣の席に居て、彼の要望で試験用紙をすりかえて答えを書きました。勿論僕の点数90点を書くと、バレるので70点くらいにして書いた。変なイタズラをしたものだと思っています。
 又、卒業後、三菱本社勤務の時、(昭39年)晴海の見本市で、人から声をかけられたので、よく見ると恵良と九工大の同期の土田と一緒で西日本車体のブースに出張していた。これもビックリしました。

3.同期生の想い出

3.1 科学部の同期生
 安河内浩(中学23年3月〜高校25年3月)。彼の親父は東京高師卒で戸畑市立所女学校の校長として浮羽郡から転勤して来ました。昭25年東京の洗足学園の校長になったので、彼は同じ時期に東京の小山台高校に転校しました。したがって彼との戸畑での交友は3年間でした。しかし、彼との絆は繋がり現在まで続いています。
 その後のエピソードを記すと、彼は東大を目指したが、僕に東京地区の大学を目指し東京に出て来いといわれ受験用の本(特に英語)を送ってきたので、僕もその気になって、東工大を目指しましたが残念な結果になりましたが、受験時に彼の案内で東京見物に行き、新宿御苑、皇居、浅草、等見て感激しました。
 大学時代にも東京に出かけ、彼との交友はありました。大学4年の時三菱造船の第二次試験に臨みましたが、その時には彼の家に御世話になりました。会社から、合格、不合格の電報をするので住所を教えて欲しいと云われ彼の住所を教えました。その夜彼の親父等と酒を飲んでいましたが、合格の電報が来て、イギリスのウイスキーで乾杯をしました。
 彼は一年浪人して東大医学部(放射線科)に進みました。その後、学園紛争の後、東大助教授になりましたが、その時、竹内武士と安達吉雄が胸部のレントゲンを取りに来たとの知らせがありました。
 その後、国立国府台病院に転勤し、その節僕の上司の病気容態につき聞きに行きました。その後は年賀状のやり取りをしていましたが、帝京大学医学部教授、放射線技術学長をして引退しましたが、お便りでは、柔道大会に出たりして元気にやっているようです。
 5〜6年前でしたが、長崎の学会に来て、夜遅く家に電話があり、出て来いとの事で、長崎駅前の飲み屋で色々な話をしました。

 次は竹内武士です。高校時代にマージャンや野球で遊びました。夜、僕の家の前で「實ちゃん」と大声で呼び出していました。彼はー浪して九大農芸化学科に入学しました。卒業後清水の会社で働いていましたが、何年かして戸畑に帰り、家業の新聞配達業の為帰りました。
 彼とは大学時代に九重・阿蘇登山に行きました。九重では雨が降り続き、九重は諦めて、阿蘇に行きました。予定が大幅に延長となり金がなくなり、阿蘇の手前で野宿でもしようと思っていましたが、親切な人が居て、無料で泊めさせて頂くことになり、助かりました。帰りの切符だけは持っておりましたので阿蘇には登山し、帰りは昼にアイスキャンデーだけを食べ、空腹のまま戸畑に帰ることになりました。夜遅くだったので、夜食も食べられず。朝、起きたときにはロの周りに唾が固まり涎が出て、これが究極の空腹感かと思いました。

 安達吉雄も竹内と一緒に遊んでいました。彼は人好き合いの悪い人でした、彼は電気関係の仕事に就きたいといい、大学には行きませんでした。
 僕の長崎時代にステンレス鋼管の非破壊検査作業に来て、僕の家でご飯を食べました。その後の交友はありませんでしたが、前田の同期会の時に、彼を呼び出して、明専会館で竹内と一緒に3人でご飯を食べ色々な話をしました。その時小倉の病院の警備員として働いている由でした。

 深堀剛は地学班でしたが、昼休みに晴天であれば、天体望遠鏡で太陽の黒点の動きを観測しました。卒業後は交流はありませんでしたが、最近、カトリック信者として交流しております。

3.2 九州工大に進学した友人
 末吉省三、吉田勇一、藤井弘之、平井進、中村嗣好の5人でした。
 中村は化学に進み、僕と一緒に部活でバレーをしていましたが2年生の時、学校に来なくなり、退学しました。学業についていけなかったのではないかと想像しています。

 平井は卒業後、八幡精エに勤務しましたが、専務までなりました。会社を退職した後、自営で機械を設計、製作、販売をしばらくやっていましたが、身体が悪くなり医者である息子の所に行ったようですが、その行き先は分かりません。

 末吉、吉田、藤井は皆、退職後集まる事にして、第1回は廿日市温泉の大丸別館でよく飲み、よくしゃべりました。第2回目は吉田の御世話で別府の三井物産の寮で城下鰈を食べました。その後杵築、宇佐神宮等を周遊しました。第3田の計画を末吉がしていましたが、今回の同期会に合流することにしました。

3.3 山を歩いた友人
 中3から高1になる春休みに小山繁と八幡の水源地から尺岳を通って福智山にいきました。
 尺岳近くの谷におりで、飯盒飯で1人3合の飯を海苔の佃煮と一緒にたべましたが、人生最大量の昼飯になりました。水を探したり、薪を探したりして時間がかかり、3時頃に昼飯が終わり、福智山の頂上では5時になりました。
 最初の計画では、直方方向下ることにしていましたが、2人と相談して早く山を降りる為、採鋼所の方向に降りることにしました。途中完全に道に迷い、谷を降りれば人家に行けると判断しバラや木々を降り、やっと大きな道に辿り着き、その道を通り採鋼所の駅に着き8時の汽車に乗ることが出来ました。
 家に帰ると母が「切られの与三郎」と云われました、顔中傷だらけだったのです。この山登りはその後の人生に大きな教訓を与えてくれたと思っています。

 高2の夏休みのとき、亀井吉次(九電元常務)と英彦山に行きました。
 山の入り口にキャンプ場があると聞いていましたが、何処か分からず、大きな荷物を担いだまま頂上まで登り降りしましたが、大変キツイ思いをしました。
 次の日は英彦山より山国川沿いの駅まで長い距離(20Km位)を歩き大変疲れました。亀井は九大卒業後九電に入社した後、送電線を計画することになり、この歩きが大変役立ったと後で聞かされました。

4.おわりに

 昭和20年4月から昭和26年3月まで6年間に亘り、戸畑中学校、戸畑高等学校に御世話になり、大変有難く又、感謝致しております。
 その間、先生の方々、同輩の方々の御指導、御支援により、自分が良い社会人として育成させていただいたことを大変感謝しております。
 お陰さまで40年間会社に勤務し、多くの事を成し遂げることが出来ました。製鉄機械、鋳造、等の仕事を通じて、社会に貢献できたことを誇りに思っております。
 僕の家族も立派な社会人となり、長男、娘婿、孫2人も東京に居り4人共に東証1部の会社で精勤しており大変喜んでおります。もう一人の孫はまだ小学2年生ですが、将来を期待しています。
 最後になりますが今まで、御世話になった同期生、先生、家族のご指導に感謝し今後を生きてゆきたいと思っております。
以上



2011年9月、東京で金婚の祝いを家族全員で祝いました。